. 虫の知らせというものがあり、虫の音を愛好するという事がある。ム−ジカとして聞
くのである。
. 虫の鳴き声に味を感じるのはアジア人だけで西洋人にはないセンスだと言われている
が、本当だろうか。このへんの俗説には用心が必要である。
.. 左脳、右脳の使用量の違い、虫の音をノイズとして無意識が処理する西洋と中国言語
圏の人々、という一時期流行った大脳生理学の学説も未熟な仮説でしかない。事実、中
国言語圏の死角にも虫の音愛好は存在する。ノイズミュージックは西洋からの主張だし
、視覚的には「汚し」「エイジング」「廃虚」というスノッブな美学は西洋にもけっこ
う昔からあるのだ。わびさびに似たセンスは何も日本人だけの和の美の特許ではないの
だ。
. しかし西洋にノイズの美が広まったのは確かに最近で、それは東洋からの影響で当用された文化なのかも知れない。あるいはアフリカからのフリかも知れない。
. ユングも盛んに東洋と西洋の集合無意識の差を強調し、ヨガなどの東洋かぶれ嗜好の
方法論は西洋人には向かないと所々に書き記している。だが今(2006)ではユングも日
本でいえば明治頃の(1868〜1912)生まれ(1875〜1961)の老学者の印象が強く、
最近の東洋と西洋の様子はユングの想像以上にお互いに接近している。
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. 下記の写真は中国では揚子江下流域(上海、南京、蘇州)のローカルな人々にしか見
られない文化、虫の音を楽しみ、そして持ち歩くための携帯用虫籠である。ひょっとす
ると昔のi-podのようなものなのだろう。大変精緻で繊細に作られており工芸品としても
美しく優れたものである。大体はタバコの箱位の物で、竹と瓢箪製でありかさばる物で
はない。中に虫をいれ御飯粒をいれる餌箱も設置されている。螺鈿細工で綺麗に飾られ
た物もある。勿論、通販では買えない。
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. この文化が「共時性」的に天から伝播したものなのか、海を渡って昔日本に向かって
、くねくね伝来してきたものなのかは分らない。他の南アジアの国々にこの文化がある
のかどうかも僕には分らない。日本人は鈴虫の涼しげな音が好きだが、中国人はコオロ
ギ好きらしい。(コオロギは声がヒバリに似ていることから何々ヒバリという名がつい
ているものが多い)ノイズの好みの胸中も国民により色々である。
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. 中国南京市内白鷺公園に隣接する花鳥魚虫市場に、虫とその用品を売る環境が秋葉原
のようにかたまってあるようで、マニア化した玄人の世界がその奥に広がっている。苦
労して採取された美声の血統あるものは、法外に高値で虫眼鏡をもった厳しい客と取り
引きされる。
. 中国では鳥の声を品評する文化はそれよりも盛んで、日本でも一昔前は農家のお爺さ
んが縁側で大事そうにペットのしなやかに鳴く目白に、練り餌をやるのどかな風景が見
られた。
. しかし最近まで町の彼方此方にあった鳥屋は廃れてしまって、その文化は絶滅にひん
している。戦後ほとんどの野鳥の飼育を法律で禁止したから一般の人が飼う気をなくし
たからである。鳥に鳴き声をコーチする人もいなくなった。
. 日本には最近まで鳥籠と虫籠を竹で精緻にこしらえる文化がそれぞれあって、虫を飼
うのもかなり大きな籠である。歌舞伎などにもよく登場するところをみると、オーディ
オもTVも設置されてない昔のほうが、人々が微妙な音に敏感であり盛んであったことは
予想がつく。だが虫を飼うようになったのは江戸時代後期で、それ以前は山々へ御機嫌
なピクニック気分で聞きに行ったのである。そのいわば「虫狩り」は平安時代まで遡る
。歌に散々読まれているからである。しかし虫を持ち歩く文化は日本にはない。この中
国の ペットi-podを是非入手して鈴虫と共に渋谷の喧騒の中を散歩する作法を身に付けた
いものである。
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. 虫の鳴き声はホワイトノイズに近い雑音ではあるが、せせらぎの音や海の渚の音がそ
れに近く、癒しの効果がある事が知られている。α波の発生を促進する音でもあり、α
波は瞑想時や睡眠時に多く発生する脳波である。本来倒錯した心の掃除の効果が生理的
にあるのであれば、これは古今東西の枠を越えている。
. この虫を可愛がる文化は少年が本能的に持っているものであるが、対称的に虫を嫌う
本能を持った子供もいない訳ではない。特に女の子は嫌いなようである。見ると即、虫
キラーになる人も多い。中国でも女性の趣味人は少ないようでこれは東洋西洋と言うよ
りも虫が「少年性」と結びついている事を暗示している。虫はロボットぽいのだ。機械
論とリンクしている。少年は機械とはほっと安心していられる。
. 虫がテーマの謡曲「松虫」も思わせぶりなホモセクシャルな世界である。女人の入り
込む余地は微塵もない。
. 蝶の収集は西洋でも盛んであるが、これも男の趣味である。蝶はその種々のヴィジュ
アルの綺麗さを追求するものだが、女性は冷静であまり興味がなさそうだ。逆に映画「
コレクター」では主人公の収集僻が女性へと対象を劣性的に変質した結果である。
. 僕らは虫の顔を知らないでで叩きつぶしてしまうのであるが、これが恐さに反して結
構愛嬌のある顔をしているものが多いのである。下の写真は蠅取りクモの顔であるが、
何か年取ったシャイな熊っぽい。
. 顔を見てしまうとなかなか殺す気にはならない。これは戦争も同じである。同時にた
わい無い他生物をペットとして溶けるような愛情を注いで行くのも人間の特権でもある
のだ。この「可愛さとは何か」は重要で手間のかかる検証を必要とするが、ここのテー
マではないので別の機会に譲ろう。
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蠅取りグモの顔。目は八つありそれぞれに四つの機能が分担されている。わずか5mmの運動機能はジャンプ力といい、歩行機能といい大変すぐれたもので、人間の作り出す機械はそれと競べると幼稚に見える。勿論、水銀電池の交換もない。 |
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. 僕は畑の脇の道路沿いの二階家の部屋で寝ていて友子の夢を見ていたが、はったと目
が醒めた。その時、下の道路でウロウロしている子供の声がして「友子、友子」と友達
に叫ぶ声が聞こえてきた、という経験があるが、「共時性」も視覚化ばかりではなく、
音によるものもあるようである。もっともこの子供の声が「僕の友子の夢の淵」にしっ
かり影響して、友子が出てきた事も考えられるので、そうするとこれは「共時性」では
ない事になり実例的には破綻するのだが、しかしこれは僕には判断がつかない事なのだ
。
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. 音にその時の己の心理が布置され別の意味を持って来る「空耳」といわれる事がある
のはよく知られているが、「共時性」の場合はあらかじめ独立した心に収監された思考
やサウンドがあり、それが次ぎの瞬間に現れた同じ音に同調するのである。これは視覚
に較べて起きにくいように思われているが、気が付かないだけで日常的にけっこうメラ
メラと起っていて気付かれない習慣になっているのである。亀の事を考えていてTVのコ
マーシャルで「カメラ、カメラ」と聞こえて来るのである。
. また、台所の水の音が心理的に内向している時、しっかり聞いていると何者かの話し
声に聞こえる事も無い事ではない。健常者の場合は日常ではあまり心理的内向のチャン
スは少ないので気がつなないが、精神疾患のある患者の場合や、薬物中毒者、アルコー
ル中毒患者はこの事が頻繁の起っていると考えられる。
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. 不思議な事に音のダブルミ−ニングは古代から世界各地に打ち合わせたように存在し
てきた。日本の古い和歌や凝った近松の言い回し、英語圏にもシャレを面白がる文化は
古代からあるし、おそらくどんな言語にも大なり小なりそれはあるはずだ。音が音を模
写していて意味が違う時、両者は無化される。無が迎えにくる。無が貢献している。そ
のナンセンス。それが可笑しいのだ。
. この可笑しさは「無」に対する一種の恐怖を含んでおり、意味を追っかけていた僕ら
はそこでお手上げになる。身も震えるその浮遊状態。
. 際どくシャレで書かれた論文など誰も信用しないのは知れた事。つまりこのエッセー
のことではある。それを防衛する気もないが。
. 「共時性」のダブルミ−ニングも、言語の地口もその「無」を故郷としているように
思われる。ダブルになる事により存在や意味が希薄化してくる。貿易センタービルが双
児だったように。
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. もはや冬で外にコウロギはコロコロとは鳴かない。
. しかし、虫の知らせは誰にでも起っている。それが起きた時にそれを虫の知らせだと
心で分るか否かで予言者と僕らが違って来るのだ。無視すればただの夢、僕が飛行機で
落ちる夢をみた時それが9.11だと思えばそれは予言となる。
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(師走なのでまじめな文体にしてみた。どうぞみなさまよいお年を。)2006年師走 そらしま
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