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ジョセフ・マロウド・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner 1775−1851) 1799年、24歳にしてアカデミー準会員、1802年、27歳でアカデミー正会員。この頃の自画像。カンバスに油彩 |
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画家 G.Mターナーは1776年ロンドンの床屋の長男として生まれている。そして1851年12月19日76歳で、ロンドンのチェルシーの自宅で死去した。生まれた当初はイギリスは産業革命が始まったばかりで、アメリカはフランスから独立している。イギリスはまだアメリカのを統治を諦めていなかった。 ターナーは生涯独身で過ごしたが、未亡人のサラ・ダンビーとの間に2人の娘イヴリナとジョージアナをもうけたと考えられている。ただ最近の説では、この二人はターナーの子供ではなく、ターナーの父親の子供だったとも言われている。ターナーの性癖は今となってはわからないが、日本でも西洋でも近親相姦は当たり前の時代であったことはすでに神話化している。日本でも家を守るためのいとこ弟同士の結婚は珍しくなく、私の爺さんと婆さんもいとこ同士であった。それは天皇制を頂点とする家を守る事としての血の編集であった。 ターナの母親は生まれつき鬱の気質を持っており、ターナーが幼い頃には家にはおらず、1804年に色々な精神病院を渡り歩いた末、病院で死んでる。ゆえにターナーには母親の不在がいつも無意識にあったように思われる。あるいはターナーが一生独身であった結婚に対する恐怖感が、そこから来ているのかもしれない。
日本年表に置き換えれば日本文化面では当時、初期錦絵完成者の鈴木春信がおり、文人画の池大雅がおり、精神界には風狂なる白隠などの禅僧がいた。このころの江戸時代の世の中は飢饉により百姓一揆が続発しており、外からはロシア船が我が鎖国を物色来航し、日本での国内外も大きく変わろうとしていた。
イギリスでも宗教画の呪縛から風景がやっと市民権を得て、画家は助手画工を雇っているアトリエから外へと出て行くことになる。そんな時代にターナーはいたのだ。はじめターナーは10歳くらいの時に版画の彩色のアルバイトをしていたようで、その後建築事務所で働いたようだ。建築に興味を持っていた彼はそこを出て、あるいはそこの仕事をしながら、はじめての絵画指導の師となる建築風景画家のトマス・モートンの教えを受けた。そして1789年ロイヤル・アカデミー美術学校生となった。 その頃、ターナーは自身の画家人生において重要なトマス・モンロー博士のサロンと出会うこととなる。トマス・モンロー博士は当時の一種のパトロンでコレクター、精神科医でもあった。そこでターナーが出会ったのがこの論文でも最重要な水彩画家のアレクサンダー・カズンズである。彼はすでに水彩画の巨匠で、1750年頃から偶然の絵の具のシミを元にデッサンを自由に想像する手法を説いた「独創的風景構図草案の新手法」と言う論説を展開しており、その死の1786年にその説が本として出版されている。この人は私にとっても重要だが、日本ではなかなか資料が見つけにくいので今後の出版が待たれる。この辺の話からここでの本題に近づくのだが、トマス・モンロー博士も精神科医であったことから、そのサロンでの話題も精神的思考に向いていたと思われ、ターナーが一生その創作のコンセプトとした「崇高」と言う概念のきっかけがその当時に早くも芽吹いていた可能性がある。
ターナーには画家的な先見性、実験性を超えてどこまでいっても捨てきれない宗教性といったものがあり、それはギリシャ神話的、キリスト教的宗教性を超えて人類共通の「崇高」に出会ったからに違いない。そのことが私にはターナーの一生が一種の錬金術師的方向を歩んでいった人生であるように見えるのだ。 人類史はローカルな地方史の集まりであると考えるのではなく、世界精神とでも言うべき巨大な一個の霊体として思考すべきで、それが今までの、限られて知られている世界史においても、発明やアクシデントが連鎖的に起きる原因であることを私は信じ込んでいるのだ。そのような世界生物星体とでも言うべきボンヤリしたイメージがやがて錬金術的に結実して、上と下とが結合され、空と海とが一体化し、ターナーの西洋的水墨画のイメージへと蒸溜されるのだ。
ターナーは私などが持ち上げなくとも生前も死後も十分評価された幸運な人生だったのだが、その早熟的成功とは別に彼はどうしても世間には理解してもらえない一面を抱えていたように私には見え、それが気難しさや、孤独癖や、孤独なスケッチ旅行を好んだ原因ともなり、世間的な敗北を知らないその人生では、嫉妬も交えた皮肉な悪評も大して気にもせず、世俗的なものは段々と横に置かれてゆき、それではどうしても手にすることのできない、文字どおりの「崇高」が、旅先のアルプスの峰々に垣間見えていたのだった。
ターナーの生い立ち、その学術的絵画論や詳しい変遷は学者諸氏に譲るとして、ここでは恐らくこれまで誰も論じなかったと思われる、その先見的共時性絵画論や彼の錬金術的な精神の側面について考えてみたい。そしてそれは最近の私の絵画制作態度に共通する精神性だからである。
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by Mitsutaru Sorasima 201702 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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このページの音楽仕様 |
「棚からターナーのテーマ」 ギターシンセサイザー・パーカッション |
参考文献 |
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タイトル | 編集発行 |
1 | ターナー展 | 1986年 国立西洋美術館 |
2 | [知の再発見]双書128 ターナー 色と光の錬金術 |
2006年 (株) 創元社 |
3 | 世界の名画2 ターナーとロマン派風景画 | 1972年 中央公論社 |
5 | 世界美術全集 18 ターナー |
1977年 (株) 集英社 |